本とみくしー

普段思っているより、「誰かがあれこれを知っている、ということを知っている(、ということを知られている)」ということはやはり重要なのであるはず。
もしこれが個々で公共的であるというように捉えられるなら、量的、もしくは質的にテクストの内容について考えると面白いのじゃないのかな。


だが、導かれるものはきっといわれれば気づくものでもとから知っていたといえるようなもの。


しかしこりゃーこれとかそれとかあれとか指示語が多すぎるし完全なメモになってしまった。
そしてその行為も対象に。ってやってらんない。